大学は、それぞれの専門教育を標榜しているからには、これまでは、それらの専門教育を可能とするための基礎学力を高校で身に付けてくることを入学の暗黙の前提条件として学生に求めてきた。しかし、学力試験を経ずに入学してきた学生に、専門教育の前提となる基礎学力が不足していることが問題となり、大学に入学してから、足りない学力を補うための「リメディアル教育」と呼ばれる補習教育が行われるようになってきた。
リメディアル教育は、開始された初期には、主に、化学、物理、生物、数学等、の理数系科目について、高校で未履修、あるいは、履修したものの内容習熟度が低く、大学において、それらの発展事項に関する専門教育をうけるには困難を覚える学生を対象に行われてきたものであるが、近年、英語についてもリメディアル教育が行われるようになってきた。
リメディアル教育と言っても、種類と程度は多岐にわたる。しかし、英語に関していえば、多くの大学生の英語力の低下は、並みのリメディアル教育では歯が立たない低さにあるのが実情である。

「できる」学生と「できない」学生が二極化しているという時、「できない」学生がどの程度できないかというならば、例えば、中学校1、2年生のレベルの英語文献を正確に読むことができない、「主語」、「動詞」「目的語」、「名詞」、「形容詞」などという文法用語をほとんど理解していない、ある学生に至っては、大学に入学するまで、文法用語どころが、英文法というものが「存在する」ことを知らない、などである。このような状態で英語文献を読もうとしても、まったく歯がたたない。

ほとんどの大学で、共通教育の英語は必修科目である。英語が苦手なままで大学に進学した学生も、履修が義務付けられる。教壇に立って、二極化した実力の学生たちを相手にし、筆者自身、英語が分からないという絶望期を経験しているだけに、英語が苦手な学生たちの、同じ教室に学ぶ英語が得意な学生たちを見つめる羨望と絶望と「なんとかしようにも、どうにもならない」という諦めのまなざしの奥にある悲しみに胸が詰まる思いをする日々が続いた。

さらに胸が痛みを深めたのは、英語学習に困難を抱えている学生たちが一様に、英語学習についてだけでなく、自分の「能力全体」についての自信を失っていることに気が付くようになったからである。「私は『英語が』ダメだ」と言い続けているうちに、いつのまにか、そのフレーズから、『英語』がぬけおちて、「私は…ダメだ。ダメな人間なのだ」と変わっていくことがわかってきたのである。
英語学習における困難感は、英語という一つの学習領域の問題にとどまらず、学習者の人間全体を覆う自信喪失という闇を広げているという現実についての驚きとともに、このような状況を何とかできないだろうかと考えるようになった。
そして、これらの学生相手に、認識理論に基づいた「たてなおしの英語」と称する、英文の構造の理解を一から立て直すことを目指す授業を始めたのである。

一般的な英語のリメディアル教育と何が異なるのかというならば、例えると、一般的なリメディアルプログラムが、プールの表面でおぼれている人間を助けるためのプログラムであるとすれば、「たてなおしの英語」は、プールの底に沈んで動けなくなっている人間を、認識論という、英語学習以外の領域の観点の助けを借りて救出しようとする試みであると言える。

「たてなおしの英語」は、英文法解説を図とアニメーションで説明する動画をつくり、それらを使用して、知性の仕組みと性質に沿った形で、英語文法の理解を基礎の基礎から発展まで総合的に立て直す試みである(後に詳細を述べる)が、この授業を通じて、一人、また一人と、プールの底からプールの表面へ浮き上がってきて、自信をもって泳ぎ始める学生が増えてきたのである。
そして、泳ぐ喜びを経験することができるようになってきたこれらの学生は「英語が苦手になったのは、私の能力のせいではなかった。勉強の方法が誤っていたのだ」という事実を理解し始めることとなった。そして、次のような素朴な疑問を共通して口にするようになった。

「なぜ、『たてなおしの英語』のような英語を中学で学べなかったのだろう」と。

「たてなおしの英語」という授業と似たような試みはあちこちで行われているであろう。そして、それらの試みを通じて、英語学習の海で泳ぐ喜び、自分の知性と自分という人間全体への自信の回復を経験できる学生がいるだろう。しかし、全国に散らばっている英語学習困難者のすべてがそれらの授業に巡り合う確率は高くはない。
そう考えると、「たてなおしの英語」や、それに類した試みの存在と、なぜ、そのような試みが必要であるのかについて、一人でも多くの人に知っていただく方法がないものかと考えるようになったのである。

「たてなおしの英語」を続けているうちにわかってきたことの一つは、学生たちの脳裏をよぎる「なぜ、このような授業が必要なのか」という疑問の重要性である。できない状況から脱するためには、どのような助けでもよいからすがりたいという気持ちで大きな疑問も抱かずに授業に取り組む学生もいる一方で、「なぜ、この授業なのか、この授業でよいのか」という、当然の疑問を持つことによって、演習問題を解くスピードが鈍るケースが少なくないことが分かってきた。

そこで、「たてなおしの英語」は、第1回目の授業で、「英語ができるってどういうこと?」というイントロダクション講義を行うようになった。この講義で学生たちは、自分たちが置かれている日本の英語学習の現状がどのようなものであるか、なぜ英語学習の成否が個々人の自信という問題に関係しているのか、また、何を、どのように学習していく必要があるのかなどについての理解と覚悟を新たにし、積極的に授業に臨む姿勢が強くなってきたのである。

これは、医者と患者に例えると、医者は、患者の病気の原因を発見する限りにおいて、治療に入る前に、今、患者の体の中で「どのようなことが起こっているか」と「取り組む治療が、その問題に対して、どのような役割を果たすことが期待できるのか」を患者に説明する必要がある。その説明なしには、行われる治療への患者側の疑いや、戸惑い、無関心によって、治療効果は大きく異なってくる。
もし、ひとりでも多くの方々に「たてなおしの英語」、あるいは、それに類する(たぶんあちこちに存在するであろう)学習法を試みていただきたいと希望するならば、

①「英語学習で何が起きているのか(体の中で何が起きているのか)」

②「この学習方法は、それらの問題にどのように解決しようとしているのか(この治療は、体の中で起きている問題にどのように対処しようとしているのか)」

の両方の説明が必要である。そして、①は、筆者が理解する限りにおいて、大変に複雑な問題である。
従って、本書はまず、①「英語学習で何が起きているのか(体の中で何が起きているのか)」を明らかにすることによって、英語学習の治療の必要性に、英語学習者、指導者、取り巻く多くの人々に気づいていただくことを目指したい。
そして、②そのような現状をどのように変えうるのかについての試み―「たてなおしの英語」という学習方法―と、その試みを一人でも多くの英語学習者に届け、実りを得るための「たてPプロジェクト」という指導者プロジェクトへの参加のお誘いをしたいと考えている。

では、ここから、①日本の英語学習で何が起きているのか」についての筆者なりの現状理解を述べてみたい。