「教える」側にも声を上げようのない状況がある。
文部科学省管轄下の小・中・高において雇用されている教員は、学習指導要領を始めとする、教える内容と教え方に関する縛りの基で教えている。
現行の学習指導要領よりも、よりよい指導方法を取り入れたいと思っても、教員個人の
そのような自由裁量が認められるケースは多くはないだろう。
また、「わからない」という学習者に対して、わかるように何とか助けをしたいと思っても、数十人の学習者を一括教育せざるをえない現場で、「わかる」学習者に足踏みをしてもらって「わからない」学習者の内容やペースに授業内容を変更することは難しいであろう。
さらには、「わからない」学習者のために、補習クラスなど、特別クラスを増設して対応することも、制度的に、時間的に、エネルギー的に楽なことではない。
つまり、「わからない」学習者をなんとか助けようと切望したとしても、助けようにも、助けられない厚い現実の壁が彼らを阻むのである。
遺伝子組み換え大豆の導入の有無が問題になった時、「遺伝子組み換え大豆はいらない」という流れを作ったのは、食品行政の関係者ではなく、スーパーマーケットで実際に大豆食品を購入する購買層であった。
同じように、「できるようになる学習システム」と「そうでないシステム」の違いを学習者が理解し、「できるようになるシステム」を「選択したい」声をあげるようになったら、教える側と教育行政はその流れを無視することは難しくなってくるのではないだろうか。